2016年08月30日

長い声のメモ:コストとリスクのゲーム

「ザナドゥ」では飛び道具で防御力も無視する魔法攻撃をコストなしで撃てる。そういうゲームは他にもあるにしろ、前作にMPの概念があったことを踏まえると思い切ったことをしている。当時はあまりRPGのテンプレート意識もなかったろうから、あまり特殊なことをしているつもりはなかったかも知れないけど。
ザナドゥでは魔法ばかり撃っていてもそれが通じない敵に遭遇した時に勝てない、しかも確実に戦うことになるラスボスには魔法が通じないというリスクを付けてバランスを取っている。

コストという考え方は安直であるために必ずしも直感的ではない。コストをリスクに変換するというのは、発想のひとつではある。

数字は計画を強要する。コストをリスクに変換すると、数字ではなく現象で説明できる。
思えばザナドゥを擁するドラスレシリーズはそういうコンセプトの見えるゲームだった。







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2016年08月26日

長い声のメモ:DIVA Xを悲しむかというとそうでもないようなそうなような

DIVA Xはどうもステージで振り付け通り踊るだけというPV以外ないようで、PVをいろんなミクで楽しめるツールとして買っていた自分としては悲しい感じになった。
でもまあ売り上げ厳しい予算ない予算ない言ってたような気もするし、予算ないなりに作るとこうなるのだろう。これは後ろ向きな話ではない。自分もこう作ったかもしれない。

ボーカロイドに変な色を付けないよう無色透明のキャラ付けに気を遣ったらしきストーリーは味気ないなんてものではなく、1秒を費やす価値もないレベルの茶番なため、スキップしたかったしスキップするくらいなら最初からなくて良かったと言わざるを得ないけど、チャンスタイムまわりのシステムは好きだ。

Fで死ぬほど親しんだモジュールたちが次々と元気な表情で帰ってくる感じはちょっと感動的ですらあるし、一応、一度歌が死んだ世界という謎のふんわり設定にも即している。

鑑賞モードなら変身前と変身後のモジュールを指定出来るのもすげーやりたかったので嬉しい。肝心のPVの構成がしょぼいのはあるんだけど。ODDS&ENDS最後のサビで、そこは別のモジュールに変身させて欲しいと思ったのは俺だけではないだろう?!俺だけではないと思ってるんですけど俺は?!

モジュールやアクセサリに能力が付き、攻略に与するようになった点も、普通に考えればやってはいけないことナンバーワンのような改悪なのだけど、どうせ能力無視のこだわりコーディネートでPVを観るなら能力関係ない鑑賞モードでしか観ないし、実戦において能力優先でコーディネートしてるうちに普段は使わないモジュールも使うような機会が出来ていいかもしれない。

これまでの連作で貯まった豊富なモジュールとアクセサリーを使って音ゲーRPGを作ろうみたいな方向性が見えた今回、どうせなら音ゲーRPGとして振り切った作りのものが見てみたいなと思う。

あとチャンスタイムとモジュール課金設定がガチャだとか言われてるようだけど、シリーズ通して音ゲーは遊びたくないから5000円くらいでモジュール全部売ってくださいとか言ってた自分は歓迎というか来るのが遅いわよ、バカっ。て心持ちになる。

なんにつけてもXに今求められているのは過去のPV全開放とかだと思う。
やってくれたら嬉しいんですけど。1PVいくらとかで売ってください。










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2016年08月23日

長い声のメモ:作品を否定する人

吾輩には「作品を褒める声はいくらでもあったらいいけど、批判に意味を感じない」という感覚がある。理屈はまだない。

批判は本来、褒めることも否定することも含む言葉だけども、ここでは否定の方を示す言葉として使う。適当な言葉が思いつかなかった。

創作には人の望むものを届けるという側面があるから、批判は必要なものではあるかもしれない。
でも批判を受けて作品を変えるということは、場合によっては既に受け入れてくれている人を裏切る結果に繋がる可能性がある。
結局誰を相手にするかの問題でしかない。

作品に対する批判の本質は多分「自分ならこう作る」という形にあって、だから「お前作れんのかよ、作れないなら文句言うな」という反論が、理屈上まっとうかはともかく、主に子供の口から本能的に出てくるのだと最近思う。
自分で何かを作っていない人間の作品批判は健全な状態ではないのだろう。善悪の問題とは別で、批判する人間は必ず創作しろとか言うつもりはない。
ただ人は誰でも作り出す力を持っていて、外から刺激を受けた結果その作り出す力が疼くと、批判として表現する。
自分の中に自分も理解していない理想のモデルがあって、そことの差異を吐き出す。

批判として吐き出すことが無意味だとか無様だとか思っていたり、批判という表現形式の自由度に満足しなかったり、吐き出しても吐き出しても足りないような人間が、ついに自分で何かを作り始める。

だから批判の声が大きい人を見るたびに、じゃあもう自分でそういうの作れよ、という気持ちになるのだと思う。
ゆえなのか実際自分で何かしら作ってる人が言う分にはあまり違和感を感じない。

これからもとりあえずそういうスタンスで行くと思う。とりあえずのその先は定かではないけども。






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