2016年08月23日

長い声のメモ:作品を否定する人

吾輩には「作品を褒める声はいくらでもあったらいいけど、批判に意味を感じない」という感覚がある。理屈はまだない。

批判は本来、褒めることも否定することも含む言葉だけども、ここでは否定の方を示す言葉として使う。適当な言葉が思いつかなかった。

創作には人の望むものを届けるという側面があるから、批判は必要なものではあるかもしれない。
でも批判を受けて作品を変えるということは、場合によっては既に受け入れてくれている人を裏切る結果に繋がる可能性がある。
結局誰を相手にするかの問題でしかない。

作品に対する批判の本質は多分「自分ならこう作る」という形にあって、だから「お前作れんのかよ、作れないなら文句言うな」という反論が、理屈上まっとうかはともかく、主に子供の口から本能的に出てくるのだと最近思う。
自分で何かを作っていない人間の作品批判は健全な状態ではないのだろう。善悪の問題とは別で、批判する人間は必ず創作しろとか言うつもりはない。
ただ人は誰でも作り出す力を持っていて、外から刺激を受けた結果その作り出す力が疼くと、批判として表現する。
自分の中に自分も理解していない理想のモデルがあって、そことの差異を吐き出す。

批判として吐き出すことが無意味だとか無様だとか思っていたり、批判という表現形式の自由度に満足しなかったり、吐き出しても吐き出しても足りないような人間が、ついに自分で何かを作り始める。

だから批判の声が大きい人を見るたびに、じゃあもう自分でそういうの作れよ、という気持ちになるのだと思う。
ゆえなのか実際自分で何かしら作ってる人が言う分にはあまり違和感を感じない。

これからもとりあえずそういうスタンスで行くと思う。とりあえずのその先は定かではないけども。






posted by 座間 at 11:17| Comment(0) | 長い声のメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする